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想い出のスケーター(渡部絵美編 その3) [フィギュアスケート]

1980年2月 アメリカ・ニューヨーク州レイクプラシッドで冬季五輪が開かれました。
前年にソ連がアフガニスタンに侵攻して、オリンピックも政治に巻き込まれていた時代です。
そのときは、アルペンスキーでインゲマル・ステンマルクが回転と大回転で金メダル。
スピードスケートではエリック・ハイデンが5種目を完全制覇したときでした。
日本のマスコミは渡部さんで大騒ぎでかなりの緊張を強いられた状態でした。
規定演技でペッチ、フラチアニ、ルルツに次いで4位となった渡部さんは翌日のSPに
黒のコスチュームで登場。表情は緊張のためかあまりに硬かったのをおぼえています。
当時のSPは7つの要素(Required Elemnts)を2分30秒以内に行うというもので
減点が非常にきつかった時代です。
硬い表情のまま滑り出した彼女は序盤の2-2コンビネーションの後半で尻餅をつきそうに
なり、4位を確保はしたものの点差が広がってしまいました。
翌々日のフリーがとても心配でした。
当時の彼女のフリープログラムは平部やよい作曲のオリジナル曲「クリスタル
ファンタジー」。今でもしっかりメロディラインはおぼえています。
フリーの日は日曜日で昼の2時ころにNHKで生中継されており、気合い入ってみていた
ものです。
最終グループの最初の演技者としてブルーのコスチュームで登場した彼女はいつもの
「絵美スマイル」が戻って、出だしから前半が順調に滑り出して、トリプルサルコウ
に入る助走に入った時は私もかなりの緊張状態で着地が決まった時には「やったー!!!!」
と叫んでしまいました。
スローパートを経て、最後のクロススピンが決まった時にはほっとしたものです。
ここでトップに立ちましたが、後に控えるはペッチ、ルルツ、フラチアニ、アレン、
そしてビールマンでしたので滑走順で損をしたと思っていました。
採点方式は相対評価のため、早い滑走順は得点がおさえられ、審判の自国の選手には
甘い採点が当たり前でした。特に東側の審判は西側に辛く東西冷戦がここにも見受けられた
時代です。ペッチ、ルルツ、フラチアニと抜かれてメダルはなしが確定。
最後のビールマンが当時は彼女しかできなかったビールマンスピンを決めて4位
入賞。
ということで彼女は6位入賞となりました。
記者会見では「これが私の限界です」と答えた彼女は重圧から解放されて晴れ晴れ
でした。
この後の世界選手権で4位に入賞した彼女は競技生活から引退。アメリカのホリデー
オン アイスに所属してプロスケーターになりました。
世界プロ選手権では楽しんで滑っていたようです。
さて、次回以降はプリンスアイスワールドの原点、佐野稔さん、そしてイギリスのロビン・
カズンズなどこの時代のスケーターについて書こうと思います。


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でんでん

最近のフィギアスケート(特に安藤美姫さん)を見てると、
当時の絵美さんを思い出さずにはいられませんでした・・・
(そしてここにたどり着いたわけですが…)
ただ、当時と違うのは、絵美さんは女の子ひとりっきりで
何年間も戦ってきて、最後にあんなプレッシャーを受けて
しまったわけですよ。今の日本女子の「オリンピック出場権」
を激しく争うのも大変だけどやっぱりこころ強いんじゃないかな、
なんて思ったりもしてます。

ぼくもはっきり覚えてますよ、レイクプラシッド。
フィニッシュのあと、アナウンサーが「規定、SPと力を発揮出来な
かった彼女からようやく笑顔が戻りました~!」…あの笑顔は
忘れられませんね。
DVDで「銀盤の妖精の歴史~」見たいなのを
NHK杯編集すれば結構見ごたえのに…

では、失礼します、懐かしくて涙ものでした・・・
by でんでん (2005-12-02 02:23) 

知ったかぶり子

トリプルサルコウは回転不足で前向きに両足着氷しちゃいましたが、トリプルトーがきまりましたよね。ショートの失敗は、ショートの女王として知られていた彼女の事、とても意外でした。あれだけ基礎技術が確りしている選手って、今でも滅多に居ませんよね。
by 知ったかぶり子 (2006-09-30 07:01) 

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