SSブログ

想い出のスケーター(渡部絵美編 その2) [フィギュアスケート]

1979年ウィーンで行われた世界フィギュアで日本人女子初の銅メダルに輝いた
渡部絵美さんは帰国時の成田空港でマスコミに「私は期待されていなかったから
気楽にやれたのかもね」と答えたそうな。
当時は佐野さん引退後、男子の松村充や五十嵐文雄に期待が集まっていたが
彼らは表彰台に上がることはなかった。
そんな中でのマスコミの大騒ぎを皮肉ったのか・・・
いずれにしても翌年のレークプラシッド五輪に向けての騒ぎに巻き込まれたのは
確かだった。この時代の女子フィギュアは3回転ジャンプの時代の幕開けといった
ところで、1976年のインスブルック五輪で金メダルを獲得したドロシー・ハミルが
3回転を飛ばない最後の女王と呼ばれていた。そして、この時代は3回転を1つ飛べば
(5種類あるが)フリーで1位はとれた時代だった。
そして、現代と異なるのはコンパルソリ(規定演技)の存在だった。当時はコンパルソリ
のウェイトが高く、旧共産圏のアスリートが規定でリード、SPを経てフリーでも
逃げ切るパターンが多かった。そして、当時の採点方式は今よりも不可解でわかり
にくいのだが、席次数(プレースナンバー)というのが存在しており、6点満点での
採点で9人の審判の過半数以上が1位と判定すれば席次数1で1位だった。
という状況の中で渡部さんも規定演技は不得意な状況で、3回転は成功率が低いという
状況下であった。そのころ、彼女は前出のドロシー・ハミルを育てたイタリア人の
カルロス・ファッシコーチに師事していたが、この方は方針がまるで異なる人だった
そうである。「失敗しないことが成功への最短距離」がファッシコーチの哲学
だったようである。
渡部さんは当時上智大学に在学中でしたが、アメリカに旅立つ時に「3回転ジャンプは
サルコー、ループ、チャーリーの3種類をマスターしたい」とインタビューに答えている。
チャーリーというのは現在はトウループと呼ばれるジャンプである。
そのころの筆者はといえば、彼女のグラビアから何から集めまくってました。
もちろん小学校から中学校だったのでお金があるわけでもなく、同級生からもらったり
しながらでしたが・・・五輪の直前に本屋で見つけた「フィギュアスケーティング〜
微笑みは銀盤に舞う絵美のように〜」という本を見つけて、確か1000円だったと
思うのですが、ほとんど特集状態だったので一大決心をして買ったものでした。
いまでも本棚に残っていますが・・・
というわけで、次回はいよいよレークプラシッド五輪となります。
それにしても、我ながらよくおぼえているものです。


nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:アート

nice! 0

コメント 0

コメントを書く

お名前:[必須]
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

トラックバック 0

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。