SSブログ

想い出のスケーター(渡部絵美編 その1) [フィギュアスケート]

えっくすのフィギュアスケートファン歴は1977年にさかのぼります。
その年、アジアで初めての世界選手権が東京・代々木で開催されました。
開催前日にNHKの朝のニュースに渡部絵美さんが出演していて、フィリピン人の
お母さんと日本人にお父さんの間に生まれたハーフのエキゾチックな顔立ちに
クラッときてしまい(おいおい当時わしゃ小学5年生だぞ・・・)、フィギュアの
魅力の虜になってしまいました。
当時はテレビ中継もあったのかなかったのかわからなくて新聞記事だけで見ていた
覚えがありますが、その記事の断片も少し覚えてはいます。
「地元での大会だから良い成績を収めたい。8位になろうと自分に言い聞かせて
いました。(渡部さん)」、「出だしのコンビネーションまでは好調で次のトリプル
サルコウが期待されたが、バランスを崩して転倒。渡部の10位以内入賞は夢と
消えた。(新聞談)」など。
そのころ、彼女はコロラドスプリングスのゴールデンバレーハイスクールに留学して
おり、「転んでもトライしろ」の教育方針のフェリック・キャスパーコーチの指導
を受けていた。
その世界選手権ではペアでソ連(時代だね〜)のイリナ・ロドニナ&アレクサンドル・
ザイツェフ組が5連勝を達成したときで、第二回以降で書きますが佐野稔さんがフリーで
1位になり、総合銅メダルを獲得した時でした。
翌年オタワの世界選手権からはテレビで見るようになり、1979年ウイーンのシュタット
ハーレで開かれた世界選手権ではついにアネット・ペッチ(東ドイツ)、リンダ・
フラチアニ(アメリカ)に次いで銅メダルを獲得しました。
翌年にアメリカのレークプラシッドで開かれるオリンピックへの出場枠を3人として
一躍マスコミの大騒ぎに巻き込まれてしまいました。
現在の安藤美姫さんの騒がれ方と大差はなく、日本のマスコミは変わらないものだと
思います。
彼女のことは私のファン歴の原点ですので、とても1回では書ききれないので3回程度に
分けて書きたいと思います。
(つづく・・・)


nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 

nice! 0

コメント 0

コメントを書く

お名前:[必須]
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

トラックバック 0

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。